一昨日の8月15日は、終戦記念日でした。日本国民の90%近くが戦後生まれとなった昨今、第二次世界大戦の記憶は薄れゆくばかりです。今年の4月に亡くなった私の父は、予科練特攻隊最後の生き残りでした。入院する前に、予科練時代のことをいろいろと聴くことができたのですが、今になって思うと、もっともっと聴いておけばよかったと少し後悔しています。その話の中であまり聞いたことがなかった父のエピソードをいくつかお話しします。
私「よく、テレビドラマで上官が暴力をふるう場面があるけど、実際はどうだったの?」
父「自分は、運動ができたので(体操の国体選手)ほとんど殴られたことはなかったけど、訓練についていけない者はやはり殴られていた。ただ、一度だけ上官のミスを自分のせいにされ、思い切り何度も全力ケツバットされて、3日間くらい動けなかった」
私「特攻隊で死なずに済んだのは?」
父「昭和19年から20年の敗戦直前になると、霞ケ浦には1万人くらいの予科練生がいたが、すでに飛行機はほとんどなかった。ある日、自分たちの隊が呼ばれ、中隊長から『日本は新兵器を開発した。その搭乗員に志願する者は一歩前へ!』と号令がかかった。もちろん、全員が一歩前に出た。すると、中隊長は『〇〇期生の隊員は一歩後ろへ下がれ!』と言い、『お前たちは部屋に戻れ』と大声で言ったんだ。あとで、その理由を尋ねると『お前たち〇〇期生は、隊の中で最年少だ。だから、志願させなかった。戦争が終わったら、お国のために尽くせ』と。後に知ったことだが、その新兵器は人間魚雷の回天だった。その時志願した者の多くは亡くなったと聞いた」と。戦後、教育者の合言葉は「教え子を再び戦場に送るな!」だったと聞きます。しかしながら、そのスローガンを今教育現場で聞くことはほとんどありません。語り継いでいくことの大切さを改めて思う今日この頃です。
追記
父から聞いた【昭和19年から20年の敗戦直前になると、霞ケ浦には1万人くらいの予科練生がいたが、すでに飛行機はほとんどなかった】の話は本当か?とAIに質問してみました。その回答が以下の通りです。
AI(copilot)の回答「そうですね、昭和19年から20年にかけて、戦局が悪化する中、霞ケ浦の海軍航空隊や予科練(海軍飛行予科練習生)の状況は非常に厳しいものだったようです。予科練生は確かに多く存在していましたが、飛行機自体は戦闘やその他の要因で不足しており、一部の練習や訓練が思うように進められなかったとされています。そのため、予科練生は航空機訓練だけではなく、基地建設や防衛などの任務にも従事していたとの記録があります。お父様が語られたことは、このような背景に基づいている可能性が高いですね!💧」…でした。